幸福のかたち2

幸福であるということは一体どういうことかということについて、思いを巡らせたことのない人は少ないと思う。

ある人は「幸福」をあらゆるリスク要因が排除された状態であると定義するだろうし、
ある人は純粋に何らかの、あるいは持てる限りの欲望が充足がされた状態を幸福であると定義するだろう。

ちょっとひねりを入れて、「幸福な状態とは、幸福とは何であるかを考えない状態である」というような定義をどこかで見かけたこともある。

本来はこうやって「当て馬」をちょいちょい出しておいて、いよいよ私めの考えを開陳という流れになるのだろうけど、自分などに幸福などというものを定義できるはずもない。

しかし、幸福に至る道をさがすために「幸福」そのものを定義しようとする試みは、どんなにそれが洗練された方法であっても、必ず徒労に終わる。幸福とは何であるかという問いによって幸福というものの形ははっきりと現わされるようになるかもしれないが、そうした営みと現にその人は幸福であるかという問題とは完全に別ものだからである。当たり前のことであるが。

山に分け入りクマを撃ちたいという猟師が、クマとは何であるかという問いを立てそれについて考えるということはないだろう。彼は直ちに山に入り、クマを見つけそれに向けて銃弾を放つだけである。

そして私は今まで、そうした無意味な問いにあまりにも多くの時間を浪費してきた。
その事について特に後悔はしていないし、反省もしていない。ただこれからどうやって暇をつぶせばいいのかという不安が勃然と沸き起こってくる。絶筆。