法然院のおはなし

法然院というお寺が京都は左京区にあります。
場所的には銀閣寺の近くで、哲学の道銀閣寺からちょっと南に下がっていったところから、案内看板にしたがって左手の山のほうへ少し歩くとたどりつけます。
ここのお庭は小ぢんまりとしてはいますが外界から隔絶された雰囲気があって、僕はものすごく気にいっています。
銀閣寺の庭も見所がたくさんあって素晴らしいのですが、他の観光客が多いのと庭の中まで行くのに金を取られるのとで、もっぱら法然院に通っております。
昨日は、たまたま時間がピッタリとあいまして、こちらの住職の法話を拝聴しておりました。
いつもこのお寺の本堂の軒先で涼みながら、置いてある歎異抄などを読みふけっておりましたので、非常に興味深く、法然親鸞の考えをほんの少しながら知ることができました。

これを読んだ方も、機会がありましたら是非一度法然院のお庭をご覧になってください。
それでは、失礼いたします。

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大学のときのおはなし

大学のとき、ある人に3年ほど片想いしていました。
僕はかなり奥手というか、極まったヘタレだったので、2年から知り合うようになったその人に、4年の終わりになってようやく告白しました。結果、「彼氏がいる」ということで振られました。
成熟した大人であるみなさんからすれば、告白するまで時間かかりすぎとか、そもそもわざわざ告白する意味がわからんとか、彼氏がいるかどうかぐらい先に訊いておけとか、いろいろと突っ込みたいところはあるでしょうが、振られた帰り僕はバスの中でしんしんと泣きました。
今から考えるとその人に対して行ってきたことと、その人の僕に対する行動についての僕の反応とが、ひどく道化じみて思え、もうこういう鬱陶しいことは考えないようにしようと思うのですが、どうしてもああでもないこうでもないと思い煩うことが絶えないのです。
別にプライドが傷ついたとか、もうこんなバカらしい片想いなんか御免よとかそういう事は思わないのですが、ただただ自分の積極性に欠ける態度、ふるまいが自分自身歯がゆく思えて仕方がありません。
一つだけ気になることがあるとすれば、僕の立ち回り次第で、その人と僕との関係は違ったものになっていたのか、ということです。今はその人とはただの同窓生というか、1年に一度会うかどうかというぐらいの関係になってしまいました。

いつまでもこうして終わったことをグダグダと書いているのでは、将来にわたっても恋愛関係で成功する望みは低いなと自分でも思うのですが、元がこういう陰性の性格なのでどうしようもないのです。

表面的にはすでに終わったこと、としてさっぱりと切り替えたフリはしています。その人を遊びに誘ったり世間話のメールを送ったりすることもないし、(その人との間に起ったことについて)人に話すようなこともありません。
自分の中の建前の自分は、「もう終わったこと」としてさっぱりしたフリをしているのですが、自分の中の本音の自分は、いつまでも黒々とした感情を撒き散らしてこうしてグダグダとキーボードを叩かせているのです。

一つだけ勘違いしないでほしいことがあるのですが、3年の間片想いといっても、その間他の人と普通にデートしていたとか、他の人を好きになってたという事実もありますので、そこまで僕が一途だとか純粋だとか言いたいわけではないので、悪しからず。

それでは、失礼いたします。

変わっていくこと

人は変わっていくものです。言うことだって変わりますし、外見的な変化ももちろんあります。
人間の性質というものは何もせず放置しておけば悪い方に変化していくものです。
外見的な部分はもちろん老化というかたちで悪化していきますし、精神的にも堕落していきます。さきほど前置きしたとおり、「何もせず放置しておけば」という前提がありますので、ほとんどの人はある程度努力して内面的にも外見的にも現状維持あるいは良化という方向にもっていくのですが・・・

ここで見過ごしてはいけないことは、「悪化」「良化」ということがどういった視点からの評価なのか、果たして我々が人を指して「あの人はちかごろめっきり悪くなった」という場合、そういった判断の材料となったその人の変化について、悪化と断じることが妥当なのかどうかということについて、今一度考えてみなければいけないと思うのです。もしその人が近頃めっきり遅刻が多いということであれば、周りの人間は迷惑かもしれませんが、本人はゆっくり余裕を持って行動できるので気持ちがいいでしょう。本人的にはこれは良化したといえないでしょうか?

バカなことをいう、それはただ単なる自分本位というのだ、みんながお前のように考えるようになったら無茶苦茶だよとお思いでしょうが、最近僕が考えていることはこんなところです。ただ、ひとつ皆さんに考えて欲しいことは、悪化、良化の判断について、「100%完全に」他人に委ねることは可能でしょうか?皆さんはそれに耐えられるでしょうか?ということと、逆に「100%完全に」自分で判断できるでしょうか?ということも併せて考えてみて欲しいのです。

それでは、失礼いたします。

労働とは

労働とはおしなべて言うとどういうことだろうか、というよりも、人様から金をもらうということはどういうことだろうかという事を一時期よく考えていました。
 僕は特に才覚も粘り強さもないので誰でも思いつくようなことしか書けないのですか、働くということは要するに「他人の欲望に仕える」ということだろうと自分の中で漠然と結論を出していました。どんな仕事でも需要といいますか、「これをやってくれるならいくらいくら出してもいいよ」と言ってくれる人がいて成り立つわけで、どんな大偉業だろうとそれを必要としている人がいないのであればそれは「労働」にはなり得ないのです。

 働くことは時にあまりにも美しく称え上げられます。労働そのものを美徳として称揚することは、前述したような構図の中で労働というものをとらえていくとき、少々作為的な、というかわざとらしい響きを帯び始めます。人が人に仕えるということは本来的には健全なことではないはずなのです。

 労働とは単なる隷属でしかないのか。この件についてはもっと掘り下げて考えていきたいです。

幸福のかたち2

幸福であるということは一体どういうことかということについて、思いを巡らせたことのない人は少ないと思う。

ある人は「幸福」をあらゆるリスク要因が排除された状態であると定義するだろうし、
ある人は純粋に何らかの、あるいは持てる限りの欲望が充足がされた状態を幸福であると定義するだろう。

ちょっとひねりを入れて、「幸福な状態とは、幸福とは何であるかを考えない状態である」というような定義をどこかで見かけたこともある。

本来はこうやって「当て馬」をちょいちょい出しておいて、いよいよ私めの考えを開陳という流れになるのだろうけど、自分などに幸福などというものを定義できるはずもない。

しかし、幸福に至る道をさがすために「幸福」そのものを定義しようとする試みは、どんなにそれが洗練された方法であっても、必ず徒労に終わる。幸福とは何であるかという問いによって幸福というものの形ははっきりと現わされるようになるかもしれないが、そうした営みと現にその人は幸福であるかという問題とは完全に別ものだからである。当たり前のことであるが。

山に分け入りクマを撃ちたいという猟師が、クマとは何であるかという問いを立てそれについて考えるということはないだろう。彼は直ちに山に入り、クマを見つけそれに向けて銃弾を放つだけである。

そして私は今まで、そうした無意味な問いにあまりにも多くの時間を浪費してきた。
その事について特に後悔はしていないし、反省もしていない。ただこれからどうやって暇をつぶせばいいのかという不安が勃然と沸き起こってくる。絶筆。

近況的なはなし

長い間更新していなかったこのブログですが、とりあえずほぼ一年ぶりに記事を書くことにします。
そういえば、最後に更新したのは僕がまともに働き始める前のことになるのかと今思い当りました。

昨年の4月に学校を出て、昨年の5月10日から小さな会社でアルバイトを始め、今年の2月からはそれよりは少し大きな会社で正社員として働き始めました。アルバイトをしているときは、とにかく正社員になりたい、正社員にならなければ自分の将来は終わる、というような強迫的な考えに取りつかれていましたが、未だ試用期間中とはいえ一応正社員になった今となっては、少なくとも正社員になったからといって将来を楽観できるような状態ではないよな、と一種の諦念に似た感情を覚えています。

別にこんなところで「正社員vsアルバイト」のような比較議論のような話をするつもりもないのですが、少なくとも正社員になってめでたしめでたし、と言いたくてこの記事を書いたわけではありません。
僕が最初にアルバイトをしていた会社は、会社というよりはまあ個人事業主の構える自宅兼事務所といった場所です。そこで社長と二人で仕事をしていたので、ずっと二人同じ空間にいるということはむしろ少なかったのですが、そんな環境でずっと仕事をしていると発狂しそうだね、と読んでいる方も思っておられるかもしれませんが、案外それでなんとかやっていました。社長は厳しかったですが、僕を一生懸命躾けてくれたので感謝していますし、尊敬しています。むしろこれが書きたいことなのですが、なぜかこんなところに思い出したように書いてしまうのが自分の至らないところだというふうに思います。

ここ一年ほどの間に自分の身に起ったことに思いをいたしてみると、なんだかどこに行ってなにを食べたということばかりが思い出されて、自分は結構食いしん坊さんなのかな、と頓狂な感想を抱きました。
言いかえれば、その間食べることぐらいしか楽しみがなかったということで、自分の人生の彩のなさに対して諦め呆れる感情ばかりが湧いてきます。生きるために安定した職を得ようと奮闘し続けてきましたが、その過程として、そしてその結果として僕が得たものは、一応の正社員という肩書と申し訳程度の給料だけでした。
この後も、自分に何か書くべきことがあるかわかりませんが、もしあれば近々お目にかかります。失礼しました。

幸福のかたち

今日、こんな記事を見つけました。

幸福度指標で検討会議発足へ NHKニュース http://www3.nhk.or.jp/news/html/20100506/k10014250421000.html

当該記事によれば、

国民の「幸福度」について、これまでは経済規模の拡大などの視点に偏っていたとして、仙谷国家戦略担当大臣を中心に、価値観の多様化などに対応する新たな指標の検討を進めています。

とあります。「価値観の多様化などに対応する新たな指標」がどういうものを意味するのかわかりませんが、意義深いことではないかと思います。ただ、記事中にある「新たな指標」という表現が少し気にかかります。仮に「新たな指標」というもので、3月調査よりもいい数値が出れば、「良かった、我々の取り組みには意味があった」ということになってしまうのでしょうか。

「幸福度」というのはきわめて定量的に評価しにくい概念です。しかし、何か数字を出していかなければ具体的な政策というかたちでアクションを取りにくいのもまず事実で、より正確な指標を求めることは意味があるとは思います。